2017-04-09

藤原行成



以前、縁あって、半年間くらいかけて、日本における主要な美術雑誌(美術手帖・アトリエ・芸術新潮・みづえ等)10誌くらいの創刊から現在まで(廃刊しているものはそのときまで)のほとんどに触れる機会があった。
戦前からの雑誌では戦時中の貴重な記事など、多くの記事に触れ、絵描きとして大変勉強になった。
その経験は今の時代、ネットにはない情報こそ、オリジナルな思考を組み立てるために、ますます価値が増している中、本当に貴重な経験だったと感謝もしている。

美術といえども雑誌は、時代時代の興味をそのままに映すので、私なりに日本の美術界の興味の変遷がつかめるようになったし。その当時の評論家の評などを読んで、同時代的な作品評価がいかに当てにならないのか?ということも実感するようになった。今は、歴史上の名作とされる作品も発表当時は、評価が低いことなどはざらである。絵描きは真摯に自分の思う作品をただ作ればいいと改めて思うこととなった。

その中には、雑誌と言っていいのかわからないが、文化庁や国立系の美術館博物館の出す『日本の美術』『近代の美術』という冊子も含まれていた。
『日本の美術』では、何回かに一回「書」の特集が組まれていたので、今も今までも全く書道には興味がなかった私も書に触れる機会を持つことが出来た。

もともと日本美術では書画といって書と絵は一体化していたので、日本画を描く私としては書にも造詣があるべきなのだが、私は正直、全く書には興味をもったことがなかった。
ただ自分で手に取るのとは違って、受動的に触れる機会は自分にとって新たな広がりをくれるものだ。

何度かに一回の書道の特集を目にするにつれ、書道の歴史的な変遷までは理解できなくても、なんとなくビジュアル的に「この字は公家っぽいな」とか、「武士の字だな」とか「僧侶の字だな」とか、私なりに感じるようになってきた。

そのうち、視覚的に、単純に絵として、美しいと感じる書を描く人を発見した。

それが藤原行成だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原行成

行成の書を、なぜ私が美しく感じるのかはわからない。
ただ行成の字の強弱のリズムや全体の印象が、その品格と美しさを圧倒的に私に感じさせることは確かだ。

行成の書も展示される展覧会が、五島美術館で始まっているらしい。
今から、実物を見るのが楽しみだ。

2017-03-12

世界は美しい



最近、外をなにげなく歩いていても、春になり芽吹くつぼみや植物を美しいと感じるようになってきた。
感覚が変わったのかもしれない。
生命力というものを、こと強く感じるようになってきた。

光を浴びてうねる葉や花の形、色味。特に色は以前に比べて様々な色味が見えてくる。
世界はこんなにも美しいのかと思う。

あまりに美しく見えるこの世界に、私はもうすぐ死ぬのかしら?と思ったりもする。

絵画でそれを素直に描こうという誘惑にかられたりもするが、私は「絵画でしかできない何かをつくること」が信条なので、世界はこんなにも美しいと、ただ思ったりする。

世界はただただ美しい。


2016-11-27

それ自体が目的であること


絵画をみて涙がこみ上げるほどの体験をしたことがありますか?
芸術をみて心が揺さぶられるとは、どのような感覚なのでしょう?
私は今までに三度ほどその経験があります。そのうち二度は世界的な作家の作品をみた時。そのうち一度は、友人の個展で新作に出会った時です。その経験が一体どのような感覚だったのか?それを入り口に、今は死語となってしまった「純粋美術」という概念について考えてみたいと思います。

最近日本語訳の出た話題の新刊『サピエンス全史』を読んでいて、気になる一節に出会いました。長いのですが、少し引用をしてみましょう。

『なぜ莫大なお金が政府や企業の金庫から研究室や大学へと流れ始めたのか?学究の世界には純粋科学を信奉する世間知らずの人が多くいる。彼らは、自分の想像力を掻き立てる研究プロジェクトなら何にでも政府や企業が利他主義に則ってお金を与えてくれると信じている。だが、これは科学への資金提供の実態からかけ離れている。
ほとんどの科学研究は、それが何らかの政治的、経済的、あるいは宗教的目標を達成するのに役立つと誰かが考えているからこそ、資金を提供してもらえる。』
ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳『サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福 』(河出書房新社 2016)


つまり単なる知的好奇心からなる、仕組みを解き明かしたい!というような純粋に科学的な研究より、戦争に勝つ、大量生産に結びつくといった現実社会に手っ取り早くリターンのある研究にお金が集まる、というお話です。
限られた資源の中で研究をしなければならないので、優先順位からそうなるのは仕方のないように思えるのですが、巨視的に見ると、そもそもの優先順位のつけ方が私には全く違ったりします。
ここに今は亡き「純粋美術」という言葉があります。
美術は元々宗教の説話を伝え、建築を装飾する等、現実社会に役立つために生産されていました。しかし近代に入り絵画は絵画として独立します。現実には直接役には立たないものが生まれました。思想を伝えるでも、宗教を伝えるのでも、観光に使う目的でもない、美術として完結された美術。「純粋美術」という概念が生まれます。

私はこの純粋美術的な要素、根源的な視覚の感動に、人は突き動かされ涙がこみ上げてくるのだと思います。
例えば人物画を見て感激した時、私を揺さぶるものの正体は、描かれたモデルの意味性やそれを描いた画家の思いに感情移入するものとは全く違うのです。抽象や具象を問わず、圧倒的な存在感を放つ作品に対面した衝撃、ものすごい何かに出会ってしまった人間の畏怖の感。それは物語やドラマ性、政治的思想の有る無しを超えた、体感で訪れる、全くの原始的な視覚の体験です。

この純粋美術への感動と近い体験をされている人は、実は多いのではないでしょうか。
例えばオンラインゲームです。人はゲーム内でしか通用しない、全く現実社会では役に立たないアイテムを手に入れるために、資金や情熱をつぎ込んでいます。
そのアイテムは、ある日突然、配信を停止されたり間違えて削除をしてしまえば泡となるデータです。しかし実像のないデータやゲームに心揺さぶられ、一喜一憂する体験は、「純粋ゲーム」と名付けることもできるのではないでしょうか?そして多くのユーザーは、現実社会には全く関係のない「純粋ゲーム」を味わい、楽しめる感覚のある人々です。

素直な知的好奇心から純粋に科学研究をする人々。純粋に視覚的体感を求めている絵描き。純粋にゲームの中だけの体験に一喜一憂する人々。
それらは、等しく人間が文明を築けた特質です。人間は実物のないイメージや情報を現実と同じように等価に扱い、イメージによる産物を積み重ね文明を築き上げてきました。

そしてこれがまた不思議なのですが、純粋科学、純粋美術、純粋ゲームとして楽しんで追求していたことが、ある日突然、思いもよらぬ結果として、多くの人の命を救う研究成果になったり、魅力ある観光資源となるような美術作品になったり、日常に活力を与えてくれるゲームになる等、ブレイクスルーとなることがあるのです。これは私の制作者としての実感なのですが、絵画は最初から政治的な思想を伝えようとか、感動を与えようとか絵画以外のものを思って作り始めるものではないと思うのです。

本当に不思議なものです。何気なく作り始めて、その出来たものに対して、自分なりに作った意味や美術的な感覚について考え、そしてまた新しく作る。その繰り返しが、結果的に絵画に人を感動させる力を与えたりするのです。そのように「純粋美術」的な要素とは、私の絵画観にとって、かくも大事な要素だったりするのです。

2016-08-24

薄塗りと厚塗り


よく絵を見て、「この絵は薄塗りですね」とか「厚塗りですね」という感想を持つ方がいらっしゃいます。
私は薄塗り・厚塗りというのは、絵具で描き出す前の下地段階から、絵の表面までに絵具の厚みにどれだけの距離があるか?ということだと思っています。すなわち、薄塗りや厚塗りというのは、絵の効果を考えると、あくまで描いた絵具の層のみの話だと私は思っています。私は下地段階を考えません。

例えば日本画では、昔から下地に金箔を全面に貼ったりします。また藤田嗣治は、タルクという白い粉を使い、下地を入念に作っていたという話があります。金箔の上に墨で描いた作品や、藤田嗣治の作品は、下地がしっかりとして紙やキャンバスが透けていないので、厚塗りと考えても良さそうなものですが、私は薄塗りの表現だと思っています。

絵具というのは減法混色といって、混ぜれば混ぜるほど、基本的に色は暗く沈んでいきます。白を混ぜると明るくなりますが、色が沈むことには変わりがなく、混ぜれば混ぜるほど色は鮮やかではなくなります。なので、絵具のチューブのままで、ちょうどよい薄塗りで塗るほうが、その色の発色は鮮やかだったりします。ただここで間違えてはいけないのは、人間というのは脳の知覚で色を判断しているので、単純にどこもかしこも薄塗りで鮮やかに一枚の絵を描けば、美しい発色の絵になるかというと、決してそうではありません。
基本的に人間は対比で判断しているので、一色の発色が鮮やかということと、美しい発色の絵画というのは別の話です。単色の鮮やかさは絵画の一要素にすぎません。

典型的な厚塗りの絵というのは、銭湯の富士山の絵や映画の看板絵・もしくは岡本太郎の絵のように、絵の表面までの距離が絵具によって遠いものを私はイメージします。技法的にはグラデーションを作る場合も白い絵具を混ぜて、薄い色から濃い色を作っていくようなものを私は厚塗りの絵画としてイメージします。

絵を描いていると筆の感覚で、ある絵具の層を境に「ここからが厚塗りだな」という瞬間が訪れます。地の質感に左右されない単純に絵具だけの感覚になるのです。私は昔から、この厚塗りの描き方が苦手です。紙などの地の色を生かして描くほうが、小さい頃から得意なので、その点どこまでいっても透明水彩や日本画画材に向くといわれる描き方しか出来なかったりします。
よくメカ龍を「厚塗りの絵ですね」と言う方がいらっしゃいます。もちろん絵画の構造上、メカ龍は絵具で塗り込んで絵具により表面までの距離を出しているところもあるのですが、どこもかしこも塗り込んでいるわけではありません。日本画の画材は、下地となる紙や箔からの距離が全体的に遠かったら、こんなに変化の出る画材ではありません。実はメカ龍作品は薄塗りの部分が結構多い作品です。

またちなみに、よく戦前までの日本画は薄塗りと言う方もいらっしゃいますが、薄塗りの場所を生かすためだったり、グラデーションを美しくするために、絹作品などでは部分的にかなり塗り込む部分を作ります。それは私なりに実験してみた実感です。そしてそんな塗りの変化の多い絵画を目の前にすると私は、これは実物を見る甲斐のある作品だなぁと沁み入ったりします。
絵の中で薄塗り厚塗りや、筆触などの様々な表現が、いろいろと操作されているからこそ、人間の知覚に強く働きかけ、実作品の意味がますます増してくると私は思うのです。絵画はそのような技術を駆使することで、空間的にも時間的にも圧縮をしたり、引き延ばしたりというコントロールがしやすいメディアなのです。それこそ絵画の醍醐味だと私は思うのです。

今現在は、画像全盛の時代です。プリント技術が進歩したますます均質な未来は、すぐそこに迫っています。絵画としての役割がこの世界に残せるよう、私を含め多くの絵描きたちはそれぞれの作品で日夜研究しています。

私はこれからますます均質になってゆくその未来に、手描きの技術は逆に希少性と新鮮さを増し続けると確信しています。手描きの技術が古くなればなるほど、絵画はますます新しくなるのです。