2022-05-04

しあわせの定規


自らの幸せを他人の手に渡してはならない。






先日、SNSが物心つく前からあった若い方と話していて、

「どうしてもフォロワー数やいいねの数を気にしてしまい、疲れてしまう。」

という話になった。




果ては他の人々と数を比較し、自分のフォロワー数の伸びなさに悲しくなってしまうとのこと。

気持ちはわからないでもないが、その考え方だと、なかなか辛くなるだろうなぁと思った。




私もSNSのアカウントはあるし、展覧会の告知もさせて頂いている。

私も人間なので、いいねを頂けば嬉しいし、フォロワーになって頂けたら大変ありがたい。




しかし絵描きというのは正直、フォロワー数をいただいても、そんな多くの方々に実物の作品を見ていただくことはできないし。

そもそもが手仕事なので、デジタルデータのように量産もできない。

数に限りがある。




フォロワー数やいいねの数よりも、実物の作品を見てくださった数少ない鑑賞者の方々がいて、その中で涙を流してくれるくらい深く感動してくださる方が、それこそ何人かいたら、それはもう大変なことだ。




昔から、美術はサロン文化がよく馴染む。手仕事の絵画には、SNSのようなマスの文化はなかなか手に負えないし、多くの方に見ていただくことが、そもそも不可能な文化だ。たしか私のあやふやな記憶では、村山知義の初期の展覧会も、来場者が8人だったか?ものすごく少なく、その少なさに私は驚いた覚えがある。

美術では歴史に語られる展覧会も、来場者は非常に少なかったりする。




そういった美術の状況を踏まえてか?フォロワー数がないに等しい私でも、それなりに幸せなのかもしれない。







またこれは、私にとって重要な考え方なのだが、私の中で作品の価値とは、作品そのものによって、すでに決まっていて、外の状況に左右されないという信念がある。

長い制作活動の中で、自らの作品の判断を、他人には、任せないよう心がけていると言ったら良いだろうか?




いいねの数や、展覧会の来場者数などに任せてしまうと、それは自分では、どうにもできない単なる結果なので、自分自身疲れてしまうだろう。

何かの美術賞で賞を取ったとしても(もちろん審査員の方に評価をいただくことは、大変光栄なことなのだが)私の作品には、なんの変化もない。賞を取ったからといって、赤い花を描いた作品が、虹色に変化することはないのだ。




作品は完成した時点で、良い出来か?悪い出来かは、作者の本人が一番よくわかっている。

出来の良い絵はどうあっても良い作品だし、出来の悪い絵が賞を取ったからといって、良い作品になることはない。




純粋美術は、そもそも社会とつながらないから、社会とつながるというような矛盾を孕んだ文化だ。

個人的な悩みや考えを突き詰めると、そこは同じ人間。どこかの誰がと、つながる。

そんなものだ。







幸せの定規を、他人の手に渡してはいけない。

この、なんとも渡したくなる世の中に…。