以前、縁あって、半年間くらいかけて、日本における主要な美術雑誌(美術手帖・アトリエ・芸術新潮・みづえ等)10誌くらいの創刊から現在まで(廃刊しているものはそのときまで)のほとんどに触れる機会があった。
戦前からの雑誌では戦時中の貴重な記事など、多くの記事に触れ、絵描きとして大変勉強になった。
その経験は今の時代、ネットにはない情報こそ、オリジナルな思考を組み立てるために、ますます価値が増している中、本当に貴重な経験だったと感謝もしている。
美術といえども雑誌は、時代時代の興味をそのままに映すので、私なりに日本の美術界の興味の変遷がつかめるようになったし。その当時の評論家の評などを読んで、同時代的な作品評価がいかに当てにならないのか?ということも実感するようになった。今は、歴史上の名作とされる作品も発表当時は、評価が低いことなどはざらである。絵描きは真摯に自分の思う作品をただ作ればいいと改めて思うこととなった。
その中には、雑誌と言っていいのかわからないが、文化庁や国立系の美術館博物館の出す『日本の美術』『近代の美術』という冊子も含まれていた。
『日本の美術』では、何回かに一回「書」の特集が組まれていたので、今も今までも全く書道には興味がなかった僕も書に触れる機会を持つことが出来た。
もともと日本美術では書画といって書と絵は一体化していたので、日本画を描く私としては書にも造詣があるべきなのだが、私は正直、全く書には興味をもったことがなかった。
ただ自分で手に取るのとは違って、受動的に触れる機会は自分にとって新たな広がりをくれるものだ。
何度かに一回の書道の特集を目にするにつれ、書道の歴史的な変遷までは理解できなくても、なんとなくビジュアル的に「この字は公家っぽいな」とか、「武士の字だな」とか「僧侶の字だな」とか、私なりに感じるようになってきた。
そのうち、視覚的に、単純に絵として、美しいと感じる書を描く人を発見した。
それが藤原行成だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原行成
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原行成
行成の書を、なぜ私が美しく感じるのかはわからない。
ただ行成の字の強弱のリズムや全体の印象が、その品格と美しさを圧倒的に私に感じさせることは確かだ。
行成の書も展示される展覧会が、五島美術館で始まっているらしい。
今から、実物を見るのが楽しみだ。