2016-11-27

それ自体が目的であること


絵画をみて涙がこみ上げるほどの体験をしたことがありますか?
芸術をみて心が揺さぶられるとは、どのような感覚なのでしょう?
私は今までに三度ほどその経験があります。そのうち二度は世界的な作家の作品をみた時。そのうち一度は、友人の個展で新作に出会った時です。その経験が一体どのような感覚だったのか?それを入り口に、今は死語となってしまった「純粋美術」という概念について考えてみたいと思います。

最近日本語訳の出た話題の新刊『サピエンス全史』を読んでいて、気になる一節に出会いました。長いのですが、少し引用をしてみましょう。

『なぜ莫大なお金が政府や企業の金庫から研究室や大学へと流れ始めたのか?学究の世界には純粋科学を信奉する世間知らずの人が多くいる。彼らは、自分の想像力を掻き立てる研究プロジェクトなら何にでも政府や企業が利他主義に則ってお金を与えてくれると信じている。だが、これは科学への資金提供の実態からかけ離れている。
ほとんどの科学研究は、それが何らかの政治的、経済的、あるいは宗教的目標を達成するのに役立つと誰かが考えているからこそ、資金を提供してもらえる。』
ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳『サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福 』(河出書房新社 2016)


つまり単なる知的好奇心からなる、仕組みを解き明かしたい!というような純粋に科学的な研究より、戦争に勝つ、大量生産に結びつくといった現実社会に手っ取り早くリターンのある研究にお金が集まる、というお話です。
限られた資源の中で研究をしなければならないので、優先順位からそうなるのは仕方のないように思えるのですが、巨視的に見ると、そもそもの優先順位のつけ方が私には全く違ったりします。
ここに今は亡き「純粋美術」という言葉があります。
美術は元々宗教の説話を伝え、建築を装飾する等、現実社会に役立つために生産されていました。しかし近代に入り絵画は絵画として独立します。現実には直接役には立たないものが生まれました。思想を伝えるでも、宗教を伝えるのでも、観光に使う目的でもない、美術として完結された美術。「純粋美術」という概念が生まれます。

私はこの純粋美術的な要素、根源的な視覚の感動に、人は突き動かされ涙がこみ上げてくるのだと思います。
例えば人物画を見て感激した時、私を揺さぶるものの正体は、描かれたモデルの意味性やそれを描いた画家の思いに感情移入するものとは全く違うのです。抽象や具象を問わず、圧倒的な存在感を放つ作品に対面した衝撃、ものすごい何かに出会ってしまった人間の畏怖の感。それは物語やドラマ性、政治的思想の有る無しを超えた、体感で訪れる、全くの原始的な視覚の体験です。

この純粋美術への感動と近い体験をされている人は、実は多いのではないでしょうか。
例えばオンラインゲームです。人はゲーム内でしか通用しない、全く現実社会では役に立たないアイテムを手に入れるために、資金や情熱をつぎ込んでいます。
そのアイテムは、ある日突然、配信を停止されたり間違えて削除をしてしまえば泡となるデータです。しかし実像のないデータやゲームに心揺さぶられ、一喜一憂する体験は、「純粋ゲーム」と名付けることもできるのではないでしょうか?そして多くのユーザーは、現実社会には全く関係のない「純粋ゲーム」を味わい、楽しめる感覚のある人々です。

素直な知的好奇心から純粋に科学研究をする人々。純粋に視覚的体感を求めている絵描き。純粋にゲームの中だけの体験に一喜一憂する人々。
それらは、等しく人間が文明を築けた特質です。人間は実物のないイメージや情報を現実と同じように等価に扱い、イメージによる産物を積み重ね文明を築き上げてきました。

そしてこれがまた不思議なのですが、純粋科学、純粋美術、純粋ゲームとして楽しんで追求していたことが、ある日突然、思いもよらぬ結果として、多くの人の命を救う研究成果になったり、魅力ある観光資源となるような美術作品になったり、日常に活力を与えてくれるゲームになる等、ブレイクスルーとなることがあるのです。これは私の制作者としての実感なのですが、絵画は最初から政治的な思想を伝えようとか、感動を与えようとか絵画以外のものを思って作り始めるものではないと思うのです。

本当に不思議なものです。何気なく作り始めて、その出来たものに対して、自分なりに作った意味や美術的な感覚について考え、そしてまた新しく作る。その繰り返しが、結果的に絵画に人を感動させる力を与えたりするのです。そのように「純粋美術」的な要素とは、私の絵画観にとって、かくも大事な要素だったりするのです。