2026-02-21

小出楢重 新しき油絵



だいぶ前に、私の作品を長く見続けてくださっている方から、
「大浦さんは、小出楢重を見ておいた方が良い。」
とアドバイスをいただいた。

その後、まとまって実物を見る機会がなかなかなく、残念に思っていたところ、今回、2001年(平成13年)以来25年ぶりの回顧展が開催されると知り、喜び勇んで府中市美術館へ足を運んだ。



展覧会を見てすぐに、なぜ私に小出楢重を勧めてくださったのかがよくわかった。岸田劉生と同様、小出楢重もまた、日本人にとっての油絵、「日本の絵画」という山に登ろうとした一人であることは間違いない。文化が西洋化していく時代の中でも、日本人特有の絵具の扱い、引きずるように絵具を置いていく感覚は色濃く残っていた。

「日本の絵画」ということを強く意識し、日本画のルートからその山に登ろうとしている私とは道筋こそ違うが、同じ頂を目指しているという意味で、小出楢重の作品群は非常に多くの示唆を与えてくれた。



小出楢重の作品には、大正期という時代性もあってか、デロリの表現が強い。一方で、そのヌード作品には、女性の身体そのものへの強い関心——避け難い男性的衝動とも言えるもの——が表れているように私には感じられた。

私自身、予備校時代にヌードを描くと、身体の量感や質感については評価される一方で、頭部だけが記号的になり、画面から浮いてしまう癖があった。身体には触覚的に迫ろうとするのに、顔になると目・鼻・口という記号に引きずられてしまい、量感に対する意識が弱くなる。その差異が、絵画全体の強度を弱めることがあった。

楢重もまた、その問題を強く意識していたのではないかと私は感じた。頭部を積極的に描かない、あるいは画面の中での重要度を下げる構図を選ぶことで、絵画全体の強度を保とうとしていたように見える。



その試みの途上で、楢重の命は43歳で終わる。もし彼がその後も制作を続けていたなら、扁平な頭部を持つ日本人モデルを真正面から捉えながらも、画面全体の強度を失わない表現に到達したのではないか——そんな想像をしてしまう。

「日本人の絵画」は、その平面性と、西洋の文脈である光・空間・量感とをどのように併存させるのかという問いを常に抱えている。楢重の最終的な答えを、私は見てみたかった。




では、私の答えはどうなのだろうか。

そのことを、改めて自らに問いてみる。

2025-12-26

《あわい》から立ちあがるもの

 


スマートフォンを手にしてから、本や文章を読む集中力が落ちたと感じることが増えた。齢のせいかとも思うが、思考が一つの場所に留まらず、跳ねるような感覚がある。


そんな感覚を日々感じながら、私はここ数年、和歌という古い言葉の世界を学んでいる。現代を生きる自分が、千年以上前に詠まれた言葉に触れる。そのこと自体が、すでに奇妙な時間体験だ。


和歌は過去の表現だが、読むたび「いま」ここにイメージが立ち上がる。一方で、絵画もまた、描かれた瞬間を内包しながらも、鑑賞のたびに異なる現在を生きるメディアだ。私はこの二つを並べることで、時間がきれいにつながらない、他人の詠んだ昔の言葉と私の描いた現代の絵画が重なることで、私という存在を超えて、人間という存在の在り方そのものに触れてしまうような、そのズレに強く惹かれている。


ベルクソンや西田幾多郎の時間論は、この感覚とどこかで響き合っているように思える。ただ、それが今の私にはっきりと言葉になるわけではない。夜道で、紫色の気配だけが見えるような感覚に近い。



だから、今の私には勉強が必要なのだろう。すぐに答えが出るとは思わない。時はかかるし、見えない時期も続くだろう。それでも、このズレの感覚を手放さず、制作と思索を続けていきたい。


2025-02-20

続・アウラの居場所

 


私には、作品のアウラをまざまざと見せつけられた経験がある。

世界に一つしかない絵画の力を。美術というジャンルの力をまざまざと見せられた経験だ。






それは忘れもしない2016年。


東京駅の駅舎を利用した東京ステーションギャラリーで行われた『12 Rooms 12Artists』という展覧会での経験だ。展覧会のリーフレットの表紙はルシアン・フロイド作の《裸の少女の頭部》という作品。私は当初、この作品画像を見て、どこにでもある油彩技法で描かれた人物ポートレート作品とタカをくくって、展覧会へ出かけた。



展覧会の導入部から、大画面の絵画などのさまざまな現代美術のコレクションが並ぶ中、進んでゆくとその作品はあった。

けっして大きくはない。たしか30~40cm四方くらいの小さな作品であったと記憶している。私は、その作品を目にした途端にそこから動けなくなった。

絵画を見て涙が湧き出た経験は、これを含めて私には3度ほどあるが、「ものすごいモノを見てしまった」という感動で、その時も私の目には涙が込み上げていた。


真っ白いキャンバスの状態から、実際の空間や物質の、そこにしかない(さらに実際の空間にはない絵画空間を作るための色も加味しながら)色を読み取り、点描かのごとく、細かに読み取った色を一つ一つ積み上げて埋めていく技法の作品。

この技法でこれだけの作品の圧と空間を絵画全体で作ることは、よほどの目と頭を持った画家ではないと描けない代物。


それは油絵具にしかできない、色材の特徴を生かした作品でありながら天才にしか実現できない。

技法はわかっても真似のできる人は、本当に限られる作品。

天性の画家がここにいると思った。





画像ではわからない、絵画作品に宿るアウラの話。

2024-11-05

アウラの居場所


子供の頃から好きに絵を描き始め、美大に入り日本画や絵画というものを学び、いまに至って制作を続けてくると、絵画というものが、改めて古いメディアであることが実感される。
特にここ10数年は、デジタル化の波にもまれ、絵画を描くという場面以外で使うハードやメディアの変化が激しかったせいか、とみに感じる。


ただ私が歳をとって感じ方が変わったとも考えられるが、
昨今「絵を描くのはもっぱらiPadやペンタブで、アナログで描くことはないし、アナログは難しい。そもそもアナログで色をつけて描いたことがない」という感想を、様々な教える場面で生徒さんから聞く機会が圧倒的になったことを考えると、やはり日本画に限らず絵画は、ますます古くなったのだろう。

いまさら言うまでもなく、今あえてアナログ絵画を描く人は、デジタルやAIが今後表現できるであろうことは何かを考え、逆にアナログ絵画というメディアにしかできない表現とは何なのか?を頭に入れて表現することは、当たり前になった。

そこでデジタル素材では難しい絵の具の飛び散りや、筆触を生かすことが一つの技法として絵画でも多用されるようになってきたわけだが、画像で伝わるレベルのわかりやすい絵具の飛び散りや筆触などの図的な要素も、はたしてアナログだけのものなのだろうか?
最近は、デジタルツールもどんどんと進化し、筆触や絵具の飛び散りなどの表現や、紙の風合いや絵具の混色などの表現は再現できる。

すなわち画像で伝わりきるレベルの工夫を行うのなら、デジタルツールを使い回す技術を学んだ方が、よほど良いように私は思う。



いまのところ、私がデジタルの特徴として考えているのは、デジタルはデータ上は別として、画像化されたときや、印刷されたとしても、その平面性にあると思っている。
デジタル画像は本当の意味で、スーパーフラットである。
アナログはあくまでレイヤーが物質レベルでなので、物質によって良くも悪くも規定されている。

またアナログの強みを考えた時に、言われるであろう大きな作品を作るという強みは、私はあまり重要視していない。
現時点で、モニターの都合やデジタルデータを印刷出力しようにも、耐えうる印刷機がないなどの問題も、それは今後の技術の進歩や、どちらが作るのに安くすむか?という経済合理性の話であって、本質的なメディアの違いからくる表現の強みとは私は違うように思っている。

なので最終的には、アナログの表現の強みは、絵具の飛び散りなどの図的な形や、作品の大きさではなく、そのアナログ素材を使っているという物質性、色料の三原色の特性のみに還元されていくのだろうと私は思っている。


物質性は、やはり現場に行って生の作品を見ないと伝わらない。
画像によって伝わるレベルの表現は、やはり画像というデジタルメディアにすでに載っている時点で、それはデジタル表現である。

物質性から出る強みとは、シュルレアリスムがデペイズマンなどにより生まれた違和感からその世界の先にあるイメージを見せたように。
もしくは、もの派の作家たちが、単なる物質を提示することで、その先にあるイメージを見せたような、物質性から発するある種アウラとも言えるイメージかと私は思う。

ただそのアウラを作品に内包することは、実際は非常に難しい。

同じ図を同じ技法で、アナログ素材を用いて描いても、図の先にあるアウラの感じられる作品になることもあれば、ただの図としか感じられないものが出来上がることもある。



非常に難しいそのアウラを捕まえる作業を。一つでも多く感じられる作品を生み出せるよう研究を進めてゆきたいものだ。