2026-08-19

シュルレアリスム 覚え書き(2026年8月)


 


ここ何年か、私なりのシュルレアリスム研究から作り出した課題を、教えに伺っている高校生たちを対象に行っている。それが比較的、評判がよく、生徒さんたちも非常にイキイキと取り組んでくれるので(単に生徒さんの質が良いだけかもしれないが)それなりに自負もしている。



そうした過程の中で、改めてシュルレアリスムについて調べているうちに、自分なりの考えがまとまってきたので、今回それを記しておきたいと思った。



シュルレアリスムとは、「超現実主義」と訳されるように、現実を超えた「超現実」の世界に至るため、無意識を表現しようとする。

そのため、あらゆる論理や慣習を無視しながら作品を制作する。その代表的な技法としては、思いついたことを、つらつらと書き記していく自動記述や、夢から表現することなどが挙げられる。







……と、ここまではよくわかる。

第一次世界大戦に傷ついたヨーロッパの人々が、それまで信じていた慣習や価値観を信じられなくなり、常識を疑いたくなったという時代の空気から考えれば、非常によく理解できるのである。

しかし、私にはずっと疑問があった。


シュルレアリスムはダダイズムに続き、慣習や常識を否定すると言いながら、私から見ると、非常に構造的で常識的なのだ。


たとえば、自動記述によって書かれたとされる『溶ける魚』を読んでみても、私が和訳されたものを読んでいるので理解が足りないのかもしれないが、名詞は名詞のまま、動詞は動詞のまま、形容詞は形容詞のまま、その文法的役割がそのままの文章で書かれている。

全体の構成は脱構築されているかもしれない。しかし、一つ一つの文章は非常に構造的で、むしろ常識的ですらある。だからこそ誰でも読むことができ、その組み合わせの妙を面白く感じるということもある。

ただ、それのどこが「常識や論理の否定」なのだろうか?


その点が、私には疑問だった。



ただ、今現在、私なりの解釈としては、シュルレアリスムは非常に構造的であり、単語そのものの使い方はあくまでそのまま、その組み合わせの妙が肝心なのではないか、というところに行き着いた。

そこから美術の課題を作り、現在は授業を行っている。


アンドレ・ブルトンが詩人であることを考えると、シュルレアリスムのアイデアは非常に言語ゲーム的で、詩人らしいアイデアだなぁ、とも最近は感じている。


確かに、常識を否定し、完全に構造のない表現は、もはや「表現」ではないのかもしれない。



そう考えるとシュルレアリスムは、ちょうど良い。

2026-02-21

小出楢重 新しき油絵



だいぶ前に、私の作品を長く見続けてくださっている方から、
「大浦さんは、小出楢重を見ておいた方が良い。」
とアドバイスをいただいた。

その後、まとまって実物を見る機会がなかなかなく、残念に思っていたところ、今回、2001年(平成13年)以来25年ぶりの回顧展が開催されると知り、喜び勇んで府中市美術館へ足を運んだ。



展覧会を見てすぐに、なぜ私に小出楢重を勧めてくださったのかがよくわかった。岸田劉生と同様、小出楢重もまた、日本人にとっての油絵、「日本の絵画」という山に登ろうとした一人であることは間違いない。文化が西洋化していく時代の中でも、日本人特有の絵具の扱い、引きずるように絵具を置いていく感覚は色濃く残っていた。

「日本の絵画」ということを強く意識し、日本画のルートからその山に登ろうとしている私とは道筋こそ違うが、同じ頂を目指しているという意味で、小出楢重の作品群は非常に多くの示唆を与えてくれた。



小出楢重の作品には、大正期という時代性もあってか、デロリの表現が強い。一方で、そのヌード作品には、女性の身体そのものへの強い関心——避け難い男性的衝動とも言えるもの——が表れているように私には感じられた。

私自身、予備校時代にヌードを描くと、身体の量感や質感については評価される一方で、頭部だけが記号的になり、画面から浮いてしまう癖があった。身体には触覚的に迫ろうとするのに、顔になると目・鼻・口という記号に引きずられてしまい、量感に対する意識が弱くなる。その差異が、絵画全体の強度を弱めることがあった。

楢重もまた、その問題を強く意識していたのではないかと私は感じた。頭部を積極的に描かない、あるいは画面の中での重要度を下げる構図を選ぶことで、絵画全体の強度を保とうとしていたように見える。



その試みの途上で、楢重の命は43歳で終わる。もし彼がその後も制作を続けていたなら、扁平な頭部を持つ日本人モデルを真正面から捉えながらも、画面全体の強度を失わない表現に到達したのではないか——そんな想像をしてしまう。

「日本人の絵画」は、その平面性と、西洋の文脈である光・空間・量感とをどのように併存させるのかという問いを常に抱えている。楢重の最終的な答えを、私は見てみたかった。




では、私の答えはどうなのだろうか。

そのことを、改めて自らに問いてみる。

2025-12-26

《あわい》から立ちあがるもの

 


スマートフォンを手にしてから、本や文章を読む集中力が落ちたと感じることが増えた。齢のせいかとも思うが、思考が一つの場所に留まらず、跳ねるような感覚がある。


そんな感覚を日々感じながら、私はここ数年、和歌という古い言葉の世界を学んでいる。現代を生きる自分が、千年以上前に詠まれた言葉に触れる。そのこと自体が、すでに奇妙な時間体験だ。


和歌は過去の表現だが、読むたび「いま」ここにイメージが立ち上がる。一方で、絵画もまた、描かれた瞬間を内包しながらも、鑑賞のたびに異なる現在を生きるメディアだ。私はこの二つを並べることで、時間がきれいにつながらない、他人の詠んだ昔の言葉と私の描いた現代の絵画が重なることで、私という存在を超えて、人間という存在の在り方そのものに触れてしまうような、そのズレに強く惹かれている。


ベルクソンや西田幾多郎の時間論は、この感覚とどこかで響き合っているように思える。ただ、それが今の私にはっきりと言葉になるわけではない。夜道で、紫色の気配だけが見えるような感覚に近い。



だから、今の私には勉強が必要なのだろう。すぐに答えが出るとは思わない。時はかかるし、見えない時期も続くだろう。それでも、このズレの感覚を手放さず、制作と思索を続けていきたい。


2025-02-20

続・アウラの居場所

 


私には、作品のアウラをまざまざと見せつけられた経験がある。

世界に一つしかない絵画の力を。美術というジャンルの力をまざまざと見せられた経験だ。






それは忘れもしない2016年。


東京駅の駅舎を利用した東京ステーションギャラリーで行われた『12 Rooms 12Artists』という展覧会での経験だ。展覧会のリーフレットの表紙はルシアン・フロイド作の《裸の少女の頭部》という作品。私は当初、この作品画像を見て、どこにでもある油彩技法で描かれた人物ポートレート作品とタカをくくって、展覧会へ出かけた。



展覧会の導入部から、大画面の絵画などのさまざまな現代美術のコレクションが並ぶ中、進んでゆくとその作品はあった。

けっして大きくはない。たしか30~40cm四方くらいの小さな作品であったと記憶している。私は、その作品を目にした途端にそこから動けなくなった。

絵画を見て涙が湧き出た経験は、これを含めて私には3度ほどあるが、「ものすごいモノを見てしまった」という感動で、その時も私の目には涙が込み上げていた。


真っ白いキャンバスの状態から、実際の空間や物質の、そこにしかない(さらに実際の空間にはない絵画空間を作るための色も加味しながら)色を読み取り、点描かのごとく、細かに読み取った色を一つ一つ積み上げて埋めていく技法の作品。

この技法でこれだけの作品の圧と空間を絵画全体で作ることは、よほどの目と頭を持った画家ではないと描けない代物。


それは油絵具にしかできない、色材の特徴を生かした作品でありながら天才にしか実現できない。

技法はわかっても真似のできる人は、本当に限られる作品。

天性の画家がここにいると思った。





画像ではわからない、絵画作品に宿るアウラの話。

2024-11-05

アウラの居場所


子供の頃から好きに絵を描き始め、美大に入り日本画や絵画というものを学び、いまに至って制作を続けてくると、絵画というものが、改めて古いメディアであることが実感される。
特にここ10数年は、デジタル化の波にもまれ、絵画を描くという場面以外で使うハードやメディアの変化が激しかったせいか、とみに感じる。


ただ私が歳をとって感じ方が変わったとも考えられるが、
昨今「絵を描くのはもっぱらiPadやペンタブで、アナログで描くことはないし、アナログは難しい。そもそもアナログで色をつけて描いたことがない」という感想を、様々な教える場面で生徒さんから聞く機会が圧倒的になったことを考えると、やはり日本画に限らず絵画は、ますます古くなったのだろう。

いまさら言うまでもなく、今あえてアナログ絵画を描く人は、デジタルやAIが今後表現できるであろうことは何かを考え、逆にアナログ絵画というメディアにしかできない表現とは何なのか?を頭に入れて表現することは、当たり前になった。

そこでデジタル素材では難しい絵の具の飛び散りや、筆触を生かすことが一つの技法として絵画でも多用されるようになってきたわけだが、画像で伝わるレベルのわかりやすい絵具の飛び散りや筆触などの図的な要素も、はたしてアナログだけのものなのだろうか?
最近は、デジタルツールもどんどんと進化し、筆触や絵具の飛び散りなどの表現や、紙の風合いや絵具の混色などの表現は再現できる。

すなわち画像で伝わりきるレベルの工夫を行うのなら、デジタルツールを使い回す技術を学んだ方が、よほど良いように私は思う。



いまのところ、私がデジタルの特徴として考えているのは、デジタルはデータ上は別として、画像化されたときや、印刷されたとしても、その平面性にあると思っている。
デジタル画像は本当の意味で、スーパーフラットである。
アナログはあくまでレイヤーが物質レベルでなので、物質によって良くも悪くも規定されている。

またアナログの強みを考えた時に、言われるであろう大きな作品を作るという強みは、私はあまり重要視していない。
現時点で、モニターの都合やデジタルデータを印刷出力しようにも、耐えうる印刷機がないなどの問題も、それは今後の技術の進歩や、どちらが作るのに安くすむか?という経済合理性の話であって、本質的なメディアの違いからくる表現の強みとは私は違うように思っている。

なので最終的には、アナログの表現の強みは、絵具の飛び散りなどの図的な形や、作品の大きさではなく、そのアナログ素材を使っているという物質性、色料の三原色の特性のみに還元されていくのだろうと私は思っている。


物質性は、やはり現場に行って生の作品を見ないと伝わらない。
画像によって伝わるレベルの表現は、やはり画像というデジタルメディアにすでに載っている時点で、それはデジタル表現である。

物質性から出る強みとは、シュルレアリスムがデペイズマンなどにより生まれた違和感からその世界の先にあるイメージを見せたように。
もしくは、もの派の作家たちが、単なる物質を提示することで、その先にあるイメージを見せたような、物質性から発するある種アウラとも言えるイメージかと私は思う。

ただそのアウラを作品に内包することは、実際は非常に難しい。

同じ図を同じ技法で、アナログ素材を用いて描いても、図の先にあるアウラの感じられる作品になることもあれば、ただの図としか感じられないものが出来上がることもある。



非常に難しいそのアウラを捕まえる作業を。一つでも多く感じられる作品を生み出せるよう研究を進めてゆきたいものだ。

2023-10-09

日本橋三越での個展

個展が無事に終了いたしました。
ご高覧いただきありがとうございました。






撮影・島村美紀

2023-10-01

これから…それから…





最近、シュルレアリスムについて考えていたら、文学、とくに言語と絵画の関係性について考えるようになった。

こと日本画(あえて使おう)については、燕子花図屏風や源氏物語絵巻の例を出すまでもなく、古典文学と日本画の関係性は切っても切れないものとして、歴史上様々な名作が生まれてきた。
ただ近年、私も含め、古典文学を学んだ上で作品作りをする人が、日本画では安田靫彦以降、減っているように感じている。
それは、私も含め現代の人間に共通見解としての古典文学の知識が欠如しているので、安田靫彦に《飛鳥の春の額田王》といわれても、いまいちピンとこない私もいるので、仕方のないことに感じる。
現代では額田王より、ドラえもんやドラゴンボールのほうが、共通見解として成立するから、作家は表現として選びづらかったのかもしれない。




ただ私はこの多様性(もしくは分断)に向かう社会において、特に絵画は共通見解に向かう必要性を最近全く感じていない。
あくまで絵画は一点物なので、デジタルデータのように無限コピーはできないし、絵画はニッチを極めたものであるからこその絵画だと私は思っている。




古典文学と日本画のフィールドは、ブルーオーシャンに見える。
古典文学には、現代からは想像もつかない生活や文化の差があることで、かえって、そぎ落とされた人間の本質があるように最近感じている。
その本質を新しく展開することは、日本画の今後の研究テーマの一つであろうと思う。




しかし私はまだまだ古典文学初心者で勉強中の身。
和歌文学を少々かじって、「現代のラップバトルやラップ文化と近いなぁ」という浅い感想しかない現在。
古典文学や和歌文学に詳しい方々、どうぞ今後ご教授ください。

これから…それから…




※ちなみに画像にある酒井忠康氏の本は、絵画における空間性について読むと良いというアドバイスを知人の学芸員氏からいただき読み始めたもの。
『六人の嘘つきな大学生』という小説は、教えている生徒さんに勧められて読み終わったもの。

「酒井氏の本はまだ読み始めですが、ありがたく今後の研究の参考にさせていただきます。」「小説は飽きさせない工夫を随所に感じ、エンターテイメントとして大変面白く読ませてもらいました。」という伝言をその場を借りて…

2023-08-13

国際左利きの日



今日8月13日は左利きの生活環境向上を目指し、左利きにも安全に使いやすい道具を各種メーカーに訴えた人の誕生日から、国際的な左利きの日だそうだ。


私は元来左利きで、小さな頃、「右手はお箸を持つ手、左手はお茶碗を持つ手です!」と教える幼稚園の先生に、強烈な違和感を持つ記憶に始まり…


瓶のフタを締める方向や、ハサミが使いずらいのはもちろんのこと、自動販売機のコインを入れる位置や、自動改札機のタッチする場所…


あげるとキリのない、当たり前に右利き向きにデザインされたこの世の中に、違和感を感じつつ成長してきた。

そんな時、何時だったか、どの雑誌だったか?

高校生の頃だったかな?月刊美術だったかな?

昭和を代表する五山と言われた一角。日本画家の加山又造先生の、左利きの哀愁のような文章を見て、「同じように感じている人がいた!」と、心救われた気がしたものである。


左利きはある程度生活の中で、右手も使えるように訓練しないと生きていけないもので、様々に左利き用に配慮されるようになった今の世の中も、私の右手は訓練され続けている。

左利きでよかったと思う時は、ナイフフォークで食す時、左手で持ったフォークを器用に扱えることくらいか。


自らがその立場にあって気づくこと。

私自身気をつけなければいけないと思うのは、

文化というのは、そういうマジョリティによって無意識に形成されているもので、様々な場面で、本当に無意識に、本当に無意識にマイノリティを排除していることがある。


マジョリティの立場に立てば、気づくはずもないので、マイノリティは、マイノリティで、平和に笑って指摘することで、世の中が調和され、多様な文化が形成されたら良いなと。


この左利きの日に思う。

2023-08-10

個展のお知らせ





 

大浦雅臣展 Future Classic -未来の古典-

2023年8月30日(水)~9月4日(月)[最終日は17時まで] 

 

日本橋三越本店 本館6階 美術特選画廊


https://www.mistore.jp/store/nihombashi/shops/art/art/shopnews_list/shopnews0310.html

 

 

【Information of Solo Exhibition】

 

“Future Classic” 

August 30 (Wednesday) - September 4 (Monday), 2023  [Closing at 5 pm on the last day]

Nihonbashi Mitsukoshi Main Store, Main Building 6F, Art choice art gallery

 

https://www.mistore.jp.e.az.hp.transer.com/store/nihombashi/shops/art/art/shopnews_list/shopnews0310.html


2023-01-30

ご報告

 


この度、日本画家の石踊達哉先生にご推薦いただき、日本美術家連盟に入会させていただきました。


先生は、「絵描きは唯我独尊、自らの作品に常に真摯に向き合いなさい。」という姿勢の方なので、そんなことを気にする方ではありませんが…。

私としては、ご推薦いただいた先生の名を汚さぬよう、より一層自らの制作に精進してまいりたいと思っております。


みなさまにおかれましては、どうぞ今後とも作品を見ていただき、ご支援賜れましたら幸いです。


今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

2023-01-21

お気に入り

誰にでもあるだろうかお気に入り。


私にはお気に入りの文具がある。



中学の入学祝いに祖父からもらったCROSSのシャープペンシルと、同じく中学の入学祝いに父からもらったモンブランの万年筆。






CROSSのシャープペンシルは、当初シャープとは名ばかりな0.9という芯の太さに12歳の私は驚いたが、適度な弾力のある書き心地が大好きで、中学・高校のノートは、常にこの一本だった。

セットであったボールペンはどこかに行ってしまったし、クリップ部分の金属は使いすぎて、いまではボロボロだ。





また、モンブランの万年筆は、当初、私のような左利きには、インクが出なくなったり、紙に引っかかって紙が破けたり。大人の筆記具はなんて使いづらいんだと難渋していた。

ただ使い続けてみると、ペン先が私の左利きに馴染んだのか?インクもスムーズ、書き心地も柔らかくなった。





どちらも長年の使用で痛んでいる。

最近は、もっと使い勝手が良い三菱のジェットストリームもよく使う。



ただお気に入りは思い出とともにあったりする。

私の祖父は、民芸こけしが大好きで、単なる1コレクターの枠を超えて、民芸こけしの会をやっていた。

シャープペンシルを見るたびそんな今とは関係のない思い出を思い出し、たまには祖父の名前を検索して、懐かしく思ったりもしている。




お気に入りは、縁あって過去に私の手元に来てくれたモノ。

様々な思い出と、共にある。