中学の頃の、国語の先生の授業が、いまも心に残っている。
中学の頃に、国語を担当してくれた白髪のおじいさん先生。
自らガンと闘いながら、先生は反抗期たちを前に、教壇に立っていた。
先生の授業はこうだ。
『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色…』から始まる平家物語。
巻第一の『祇園精舎』の冒頭を皆に暗記させ、
「この世に、不変なものはあるだろうか?」
と、皆に問いかける。
生意気ざかり達は、なんとか不変なものを見つけて、先生の鼻をあかしてやろうと躍起になる。
教室から見えるコンクリートの校舎も、
このプラスチックの筆箱も、
果ては自らの命も…。
たしかに。
いつかは朽ちて無くなる。
結局、その授業中、私には、不変なものが見つからなかった。
先生は、美術やクラシック音楽も好きだった。
国語の授業中なのに、美術館での自らの作品鑑賞法や、音楽の素晴らしさを語ってくれた。
今の私が、詳しくはない音楽コンサートが好きなのも。
今思うと、あの先生は常に私の心の中にいるし、授業は今も続いてきた。
古文の活用などより、よっぽどその思想は生き続ける。
そして今、私は先生の問いに、やっと答えることができる。
私たちが生み出す作品こそ、不変であり、延命の装置だと。
一万六千年前の土器を、一千年前の絵巻を、今日の私たちは見ることができる。
芸術の価値は、今も心に残るその思想。
その思想を乗せる延命装置としての作品。
私たちは、延命の作業を繰り返している。
芸術の価値とはそのようなものだと、私は思う。