2024-11-05

アウラの居場所


子供の頃から好きに絵を描き始め、美大に入り日本画や絵画というものを学び、いまに至って制作を続けてくると、絵画というものが、改めて古いメディアであることが実感される。
特にここ10数年は、デジタル化の波にもまれ、絵画を描くという場面以外で使うハードやメディアの変化が激しかったせいか、とみに感じる。


ただ私が歳をとって感じ方が変わったとも考えられるが、
昨今「絵を描くのはもっぱらiPadやペンタブで、アナログで描くことはないし、アナログは難しい。そもそもアナログで色をつけて描いたことがない」という感想を、様々な教える場面で生徒さんから聞く機会が圧倒的になったことを考えると、やはり日本画に限らず絵画は、ますます古くなったのだろう。

いまさら言うまでもなく、今あえてアナログ絵画を描く人は、デジタルやAIが今後表現できるであろうことは何かを考え、逆にアナログ絵画というメディアにしかできない表現とは何なのか?を頭に入れて表現することは、当たり前になった。

そこでデジタル素材では難しい絵の具の飛び散りや、筆触を生かすことが一つの技法として絵画でも多用されるようになってきたわけだが、画像で伝わるレベルのわかりやすい絵具の飛び散りや筆触などの図的な要素も、はたしてアナログだけのものなのだろうか?
最近は、デジタルツールもどんどんと進化し、筆触や絵具の飛び散りなどの表現や、紙の風合いや絵具の混色などの表現は再現できる。

すなわち画像で伝わりきるレベルの工夫を行うのなら、デジタルツールを使い回す技術を学んだ方が、よほど良いように私は思う。



いまのところ、私がデジタルの特徴として考えているのは、デジタルはデータ上は別として、画像化されたときや、印刷されたとしても、その平面性にあると思っている。
デジタル画像は本当の意味で、スーパーフラットである。
アナログはあくまでレイヤーが物質レベルでなので、物質によって良くも悪くも規定されている。

またアナログの強みを考えた時に、言われるであろう大きな作品を作るという強みは、私はあまり重要視していない。
現時点で、モニターの都合やデジタルデータを印刷出力しようにも、耐えうる印刷機がないなどの問題も、それは今後の技術の進歩や、どちらが作るのに安くすむか?という経済合理性の話であって、本質的なメディアの違いからくる表現の強みとは私は違うように思っている。

なので最終的には、アナログの表現の強みは、絵具の飛び散りなどの図的な形や、作品の大きさではなく、そのアナログ素材を使っているという物質性、色料の三原色の特性のみに還元されていくのだろうと私は思っている。


物質性は、やはり現場に行って生の作品を見ないと伝わらない。
画像によって伝わるレベルの表現は、やはり画像というデジタルメディアにすでに載っている時点で、それはデジタル表現である。

物質性から出る強みとは、シュルレアリスムがデペイズマンなどにより生まれた違和感からその世界の先にあるイメージを見せたように。
もしくは、もの派の作家たちが、単なる物質を提示することで、その先にあるイメージを見せたような、物質性から発するある種アウラとも言えるイメージかと私は思う。

ただそのアウラを作品に内包することは、実際は非常に難しい。

同じ図を同じ技法で、アナログ素材を用いて描いても、図の先にあるアウラの感じられる作品になることもあれば、ただの図としか感じられないものが出来上がることもある。



非常に難しいそのアウラを捕まえる作業を。一つでも多く感じられる作品を生み出せるよう研究を進めてゆきたいものだ。

2023-10-09

日本橋三越での個展

個展が無事に終了いたしました。
ご高覧いただきありがとうございました。






撮影・島村美紀

2023-10-01

これから…それから…





最近、シュルレアリスムについて考えていたら、文学、とくに言語と絵画の関係性について考えるようになった。

こと日本画(あえて使おう)については、燕子花図屏風や源氏物語絵巻の例を出すまでもなく、古典文学と日本画の関係性は切っても切れないものとして、歴史上様々な名作が生まれてきた。
ただ近年、私も含め、古典文学を学んだ上で作品作りをする人が、日本画では安田靫彦以降、減っているように感じている。
それは、私も含め現代の人間に共通見解としての古典文学の知識が欠如しているので、安田靫彦に《飛鳥の春の額田王》といわれても、いまいちピンとこない私もいるので、仕方のないことに感じる。
現代では額田王より、ドラえもんやドラゴンボールのほうが、共通見解として成立するから、作家は表現として選びづらかったのかもしれない。




ただ私はこの多様性(もしくは分断)に向かう社会において、特に絵画は共通見解に向かう必要性を最近全く感じていない。
あくまで絵画は一点物なので、デジタルデータのように無限コピーはできないし、絵画はニッチを極めたものであるからこその絵画だと私は思っている。




古典文学と日本画のフィールドは、ブルーオーシャンに見える。
古典文学には、現代からは想像もつかない生活や文化の差があることで、かえって、そぎ落とされた人間の本質があるように最近感じている。
その本質を新しく展開することは、日本画の今後の研究テーマの一つであろうと思う。




しかし私はまだまだ古典文学初心者で勉強中の身。
和歌文学を少々かじって、「現代のラップバトルやラップ文化と近いなぁ」という浅い感想しかない現在。
古典文学や和歌文学に詳しい方々、どうぞ今後ご教授ください。

これから…それから…




※ちなみに画像にある酒井忠康氏の本は、絵画における空間性について読むと良いというアドバイスを知人の学芸員氏からいただき読み始めたもの。
『六人の嘘つきな大学生』という小説は、教えている生徒さんに勧められて読み終わったもの。

「酒井氏の本はまだ読み始めですが、ありがたく今後の研究の参考にさせていただきます。」「小説は飽きさせない工夫を随所に感じ、エンターテイメントとして大変面白く読ませてもらいました。」という伝言をその場を借りて…

2023-08-13

国際左利きの日



今日813日は左利きの生活環境向上を目指し、左利きにも安全に使いやすい道具を各種メーカーに訴えた人の誕生日から、国際的な左利きの日だそうだ。


私は元来左利きで、小さな頃、「右手はお箸を持つ手、左手はお茶碗を持つ手です!」と教える幼稚園の先生に、強烈な違和感を持つ記憶に始まり


瓶のフタを締める方向や、ハサミが使いずらいのはもちろんのこと、自動販売機のコインを入れる位置や、自動改札機のタッチする場所


あげるとキリのない、当たり前に右利き向きにデザインされたこの世の中に、違和感を感じつつ成長してきた。

そんな時、何時だったか、どの雑誌だったか?

高校生の頃だったかな?月刊美術だったかな?

昭和を代表する五山と言われた一角。日本画家の加山又造先生の、左利きの哀愁のような文章を見て、「同じように感じている人がいた!」と、心救われた気がしたものである。


左利きはある程度生活の中で、右手も使えるように訓練しないと生きていけないもので、様々に左利き用に配慮されるようになった今の世の中も、私の右手は訓練され続けている。

左利きでよかったと思う時は、ナイフフォークで食す時、左手で持ったフォークを器用に扱えることくらいか。


自らがその立場にあって気づくこと。

私自身気をつけなければいけないと思うのは、

文化というのは、そういうマジョリティによって無意識に形成されているもので、様々な場面で、本当に無意識に、本当に無意識にマイノリティを排除していることがある。


マジョリティの立場に立てば、気づくはずもないので、マイノリティは、マイノリティで、平和に笑って指摘することで、世の中が調和され、多様な文化が形成されたら良いなと。


この左利きの日に思う。