2025-02-20

続・アウラの居場所

 


私には、作品のアウラをまざまざと見せつけられた経験がある。

世界に一つしかない絵画の力を。美術というジャンルの力をまざまざと見せられた経験だ。






それは忘れもしない2016年。


東京駅の駅舎を利用した東京ステーションギャラリーで行われた『12 Rooms 12Artists』という展覧会での経験だ。展覧会のリーフレットの表紙はルシアン・フロイド作の《裸の少女の頭部》という作品。私は当初、この作品画像を見て、どこにでもある油彩技法で描かれた人物ポートレート作品とタカをくくって、展覧会へ出かけた。



展覧会の導入部から、大画面の絵画などのさまざまな現代美術のコレクションが並ぶ中、進んでゆくとその作品はあった。

けっして大きくはない。たしか30~40cm四方くらいの小さな作品であったと記憶している。私は、その作品を目にした途端にそこから動けなくなった。

絵画を見て涙が湧き出た経験は、これを含めて私には3度ほどあるが、「ものすごいモノを見てしまった」という感動で、その時も私の目には涙が込み上げていた。


真っ白いキャンバスの状態から、実際の空間や物質の、そこにしかない(さらに実際の空間にはない絵画空間を作るための色も加味しながら)色を読み取り、点描かのごとく、細かに読み取った色を一つ一つ積み上げて埋めていく技法の作品。

この技法でこれだけの作品の圧と空間を絵画全体で作ることは、よほどの目と頭を持った画家ではないと描けない代物。


それは油絵具にしかできない、色材の特徴を生かした作品でありながら天才にしか実現できない。

技法はわかっても真似のできる人は、本当に限られる作品。

天性の画家がここにいると思った。





画像ではわからない、絵画作品に宿るアウラの話。

2024-11-05

アウラの居場所


子供の頃から好きに絵を描き始め、美大に入り日本画や絵画というものを学び、いまに至って制作を続けてくると、絵画というものが、改めて古いメディアであることが実感される。
特にここ10数年は、デジタル化の波にもまれ、絵画を描くという場面以外で使うハードやメディアの変化が激しかったせいか、とみに感じる。


ただ私が歳をとって感じ方が変わったとも考えられるが、
昨今「絵を描くのはもっぱらiPadやペンタブで、アナログで描くことはないし、アナログは難しい。そもそもアナログで色をつけて描いたことがない」という感想を、様々な教える場面で生徒さんから聞く機会が圧倒的になったことを考えると、やはり日本画に限らず絵画は、ますます古くなったのだろう。

いまさら言うまでもなく、今あえてアナログ絵画を描く人は、デジタルやAIが今後表現できるであろうことは何かを考え、逆にアナログ絵画というメディアにしかできない表現とは何なのか?を頭に入れて表現することは、当たり前になった。

そこでデジタル素材では難しい絵の具の飛び散りや、筆触を生かすことが一つの技法として絵画でも多用されるようになってきたわけだが、画像で伝わるレベルのわかりやすい絵具の飛び散りや筆触などの図的な要素も、はたしてアナログだけのものなのだろうか?
最近は、デジタルツールもどんどんと進化し、筆触や絵具の飛び散りなどの表現や、紙の風合いや絵具の混色などの表現は再現できる。

すなわち画像で伝わりきるレベルの工夫を行うのなら、デジタルツールを使い回す技術を学んだ方が、よほど良いように私は思う。



いまのところ、私がデジタルの特徴として考えているのは、デジタルはデータ上は別として、画像化されたときや、印刷されたとしても、その平面性にあると思っている。
デジタル画像は本当の意味で、スーパーフラットである。
アナログはあくまでレイヤーが物質レベルでなので、物質によって良くも悪くも規定されている。

またアナログの強みを考えた時に、言われるであろう大きな作品を作るという強みは、私はあまり重要視していない。
現時点で、モニターの都合やデジタルデータを印刷出力しようにも、耐えうる印刷機がないなどの問題も、それは今後の技術の進歩や、どちらが作るのに安くすむか?という経済合理性の話であって、本質的なメディアの違いからくる表現の強みとは私は違うように思っている。

なので最終的には、アナログの表現の強みは、絵具の飛び散りなどの図的な形や、作品の大きさではなく、そのアナログ素材を使っているという物質性、色料の三原色の特性のみに還元されていくのだろうと私は思っている。


物質性は、やはり現場に行って生の作品を見ないと伝わらない。
画像によって伝わるレベルの表現は、やはり画像というデジタルメディアにすでに載っている時点で、それはデジタル表現である。

物質性から出る強みとは、シュルレアリスムがデペイズマンなどにより生まれた違和感からその世界の先にあるイメージを見せたように。
もしくは、もの派の作家たちが、単なる物質を提示することで、その先にあるイメージを見せたような、物質性から発するある種アウラとも言えるイメージかと私は思う。

ただそのアウラを作品に内包することは、実際は非常に難しい。

同じ図を同じ技法で、アナログ素材を用いて描いても、図の先にあるアウラの感じられる作品になることもあれば、ただの図としか感じられないものが出来上がることもある。



非常に難しいそのアウラを捕まえる作業を。一つでも多く感じられる作品を生み出せるよう研究を進めてゆきたいものだ。

2023-10-09

日本橋三越での個展

個展が無事に終了いたしました。
ご高覧いただきありがとうございました。






撮影・島村美紀

2023-10-01

これから…それから…





最近、シュルレアリスムについて考えていたら、文学、とくに言語と絵画の関係性について考えるようになった。

こと日本画(あえて使おう)については、燕子花図屏風や源氏物語絵巻の例を出すまでもなく、古典文学と日本画の関係性は切っても切れないものとして、歴史上様々な名作が生まれてきた。
ただ近年、私も含め、古典文学を学んだ上で作品作りをする人が、日本画では安田靫彦以降、減っているように感じている。
それは、私も含め現代の人間に共通見解としての古典文学の知識が欠如しているので、安田靫彦に《飛鳥の春の額田王》といわれても、いまいちピンとこない私もいるので、仕方のないことに感じる。
現代では額田王より、ドラえもんやドラゴンボールのほうが、共通見解として成立するから、作家は表現として選びづらかったのかもしれない。




ただ私はこの多様性(もしくは分断)に向かう社会において、特に絵画は共通見解に向かう必要性を最近全く感じていない。
あくまで絵画は一点物なので、デジタルデータのように無限コピーはできないし、絵画はニッチを極めたものであるからこその絵画だと私は思っている。




古典文学と日本画のフィールドは、ブルーオーシャンに見える。
古典文学には、現代からは想像もつかない生活や文化の差があることで、かえって、そぎ落とされた人間の本質があるように最近感じている。
その本質を新しく展開することは、日本画の今後の研究テーマの一つであろうと思う。




しかし私はまだまだ古典文学初心者で勉強中の身。
和歌文学を少々かじって、「現代のラップバトルやラップ文化と近いなぁ」という浅い感想しかない現在。
古典文学や和歌文学に詳しい方々、どうぞ今後ご教授ください。

これから…それから…




※ちなみに画像にある酒井忠康氏の本は、絵画における空間性について読むと良いというアドバイスを知人の学芸員氏からいただき読み始めたもの。
『六人の嘘つきな大学生』という小説は、教えている生徒さんに勧められて読み終わったもの。

「酒井氏の本はまだ読み始めですが、ありがたく今後の研究の参考にさせていただきます。」「小説は飽きさせない工夫を随所に感じ、エンターテイメントとして大変面白く読ませてもらいました。」という伝言をその場を借りて…