2025-12-26

《あわい》から立ちあがるもの

 


スマートフォンを手にしてから、本や文章を読む集中力が落ちたと感じることが増えた。齢のせいかとも思うが、思考が一つの場所に留まらず、跳ねるような感覚がある。


そんな感覚を日々感じながら、私はここ数年、和歌という古い言葉の世界を学んでいる。現代を生きる自分が、千年以上前に詠まれた言葉に触れる。そのこと自体が、すでに奇妙な時間体験だ。


和歌は過去の表現だが、読むたび「いま」ここにイメージが立ち上がる。一方で、絵画もまた、描かれた瞬間を内包しながらも、鑑賞のたびに異なる現在を生きるメディアだ。私はこの二つを並べることで、時間がきれいにつながらない、他人の詠んだ昔の言葉と私の描いた現代の絵画が重なることで、私という存在を超えて、人間という存在の在り方そのものに触れてしまうような、そのズレに強く惹かれている。


ベルクソンや西田幾多郎の時間論は、この感覚とどこかで響き合っているように思える。ただ、それが今の私にはっきりと言葉になるわけではない。夜道で、紫色の気配だけが見えるような感覚に近い。



だから、今の私には勉強が必要なのだろう。すぐに答えが出るとは思わない。時はかかるし、見えない時期も続くだろう。それでも、このズレの感覚を手放さず、制作と思索を続けていきたい。