2016-08-24
薄塗りと厚塗り
よく絵を見て、「この絵は薄塗りですね」とか「厚塗りですね」という感想を持つ方がいらっしゃいます。
私は薄塗り・厚塗りというのは、絵具で描き出す前の下地段階から、絵の表面までに絵具の厚みにどれだけの距離があるか?ということだと思っています。すなわち、薄塗りや厚塗りというのは、絵の効果を考えると、あくまで描いた絵具の層のみの話だと私は思っています。私は下地段階を考えません。
例えば日本画では、昔から下地に金箔を全面に貼ったりします。また藤田嗣治は、タルクという白い粉を使い、下地を入念に作っていたという話があります。金箔の上に墨で描いた作品や、藤田嗣治の作品は、下地がしっかりとして紙やキャンバスが透けていないので、厚塗りと考えても良さそうなものですが、私は薄塗りの表現だと思っています。
絵具というのは減法混色といって、混ぜれば混ぜるほど、基本的に色は暗く沈んでいきます。白を混ぜると明るくなりますが、色が沈むことには変わりがなく、混ぜれば混ぜるほど色は鮮やかではなくなります。なので、絵具のチューブのままで、ちょうどよい薄塗りで塗るほうが、その色の発色は鮮やかだったりします。ただここで間違えてはいけないのは、人間というのは脳の知覚で色を判断しているので、単純にどこもかしこも薄塗りで鮮やかに一枚の絵を描けば、美しい発色の絵になるかというと、決してそうではありません。
基本的に人間は対比で判断しているので、一色の発色が鮮やかということと、美しい発色の絵画というのは別の話です。単色の鮮やかさは絵画の一要素にすぎません。
典型的な厚塗りの絵というのは、銭湯の富士山の絵や映画の看板絵・もしくは岡本太郎の絵のように、絵の表面までの距離が絵具によって遠いものを私はイメージします。技法的にはグラデーションを作る場合も白い絵具を混ぜて、薄い色から濃い色を作っていくようなものを私は厚塗りの絵画としてイメージします。
絵を描いていると筆の感覚で、ある絵具の層を境に「ここからが厚塗りだな」という瞬間が訪れます。地の質感に左右されない単純に絵具だけの感覚になるのです。私は昔から、この厚塗りの描き方が苦手です。紙などの地の色を生かして描くほうが、小さい頃から得意なので、その点どこまでいっても透明水彩や日本画画材に向くといわれる描き方しか出来なかったりします。
よくメカ龍を「厚塗りの絵ですね」と言う方がいらっしゃいます。もちろん絵画の構造上、メカ龍は絵具で塗り込んで絵具により表面までの距離を出しているところもあるのですが、どこもかしこも塗り込んでいるわけではありません。日本画の画材は、下地となる紙や箔からの距離が全体的に遠かったら、こんなに変化の出る画材ではありません。実はメカ龍作品は薄塗りの部分が結構多い作品です。
またちなみに、よく戦前までの日本画は薄塗りと言う方もいらっしゃいますが、薄塗りの場所を生かすためだったり、グラデーションを美しくするために、絹作品などでは部分的にかなり塗り込む部分を作ります。それは私なりに実験してみた実感です。そしてそんな塗りの変化の多い絵画を目の前にすると私は、これは実物を見る甲斐のある作品だなぁと沁み入ったりします。
絵の中で薄塗り厚塗りや、筆触などの様々な表現が、いろいろと操作されているからこそ、人間の知覚に強く働きかけ、実作品の意味がますます増してくると私は思うのです。絵画はそのような技術を駆使することで、空間的にも時間的にも圧縮をしたり、引き延ばしたりというコントロールがしやすいメディアなのです。それこそ絵画の醍醐味だと私は思うのです。
今現在は、画像全盛の時代です。プリント技術が進歩したますます均質な未来は、すぐそこに迫っています。絵画としての役割がこの世界に残せるよう、私を含め多くの絵描きたちはそれぞれの作品で日夜研究しています。
私はこれからますます均質になってゆくその未来に、手描きの技術は逆に希少性と新鮮さを増し続けると確信しています。手描きの技術が古くなればなるほど、絵画はますます新しくなるのです。
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