2016-07-11

見るということ


人が物を見るということは、何を見ているのでしょう?
人は、網膜が捉えた情報をそのままに認識して、客観的に見えているのでしょうか?

私は最近、それぞれの人は、それぞれの持っているイメージをただ見ているだけで、客観的な何かを見ることはもともと不可能じゃないか?と思うようになりました。
私が見ているイメージも真実なら、あなたが見ているイメージも真実です。どちらが正しいとかではなく、そこには人それぞれの正解があるだけです。
人は各々のイメージの中に生きています。

先日、20代の友人にこんな話を聞きました。
「最近のプリクラは進化が進みすぎて修正がきつくなり、目をかなり大きくしたり、小顔になって写るようになった。だから、昔は友人と集まった記念にプリクラを撮ったが、今はぜんぜん撮らなくなった。」
という話を耳にしました。写る人間が少女マンガのように修正されて写るそうで、みんなにとって客観的と思われるイメージ(記念写真)の役目を果たさなくなったそうです。

ここで話は飛躍して、プリクラ機が仮に人間だとしましょう。
プリクラに最近彼氏が出来たというので、最愛の彼の写真を見せてくれました。おもむろに差し出されたプリント写真、そこには漫画『ベルサイユのばら』のオスカルのような男が写っています…。恋は盲目ですね…。
「アバタもエクボ」とはよく言ったもので、人間同士ではこのような見方の違いは普通にあります。

勘違いや見ているイメージの違いから、同じ事象を、それぞれの人が違って見ていることは往々にしてあります。だからこそ人間とも言えるのです。

私は哲学者・西田幾多郎の『善の研究』という本に出てくる―元来絶対的に悪というべきものはない、物はすべてその本来においては善である―という思想が好きだったりします。
絵画も、自分のイメージの弱さや技術の及ばなさで上手くいかない日はあっても、もともと悪い絵なんてどこにもありません。
そして、描いているうちに、本人のイメージはどんどんと増強されていく不思議なものです。

私たちはこれからも、イメージの中に生きています。