2018-04-22

《いき》という価値観は何の役にも立たない。


どうも、東京生まれ、東京育ち。
父親も東京生まれ、東京育ちという環境に育つと、《いき》であるということ、野暮を避けることに、異様な価値観を見出している自分に、ふと気づくことがある。

小さな頃から、古今亭志ん生が日本酒をお茶漬けのようにかけて、ご飯を食べたと聞けば、「志ん生はやっぱ乙だなぁ」と感心し。
永井荷風が晩年、女性のいるお店に遊びに行く途中でのたれ死んだと聞けば、「カッコいい爺さんだ」と感じる。

そんな《いき》ということに関心を抱いている時点で野暮なのかもしれないが、小さなころから、《いき》ということに妙な価値と興味を置いてきたことは確かであって、この歳まで生きて、様々、育った文化圏の方と話すと、どうもこの《いき》であるという価値観は東京圏独特のものであることに気づく。

九鬼周造の『いきの構造』ではないが、基本、《いき》というのは、遊び人の哲学であって、艶をよしとし、諦めは早く、こざっぱりと浮き世を浮き草のごとく漂うのを良しとする。いかにキレイに遊ぶか?といったような単なる消費の神さまのような考え方だということに、やっと気づいた次第。

《いき》はなんの役にも立たない。野暮になって努力して、世のため人のため、生産しなきゃいけないよ、今時代は。

…と、自分に戒める昨今。